ミクロとマクロの違いについて

ミクロ経済学とマクロ経済学について

ミクロ経済学とは

1776年に書かれた歴史的名著「国富論」が一般的には経済学の始まりといえるでしょう。この国富論の中で、いわゆる「見えざる手」という市場の調整メカニズムが紹介され、自由競争社会における人々の切磋琢磨が、人類に経済的な豊かさをもたらすことを説いています。

いい意味でのライバルがいてこそ、「あの人には負けたくない」というモチベーションが、結果として競争に参加したすべての人々の成長につながり、それが社会全体を次のステップへと昇華させるのだという論理は、理想論かもしれませんが、説得力のあるひとつの仮説だと考えられます。

競争は成長の原動力です。しかし、一方で格差も生みます。

ある程度の格差は、むしろ必要悪であると割り切り経済を回していくのもひとつのやり方でしょう。そもそも、経済は「効率化」を追求する学問であり、「公平性」については考察の対象としません。「公平性」については、他の学問が考える領域であり、経済学はひたすら効率性のみを研究の対象とします。

経済学には、パレート最適という考え方があります。極論ではありますが、ミクロ経済学とは、人間の限りない欲望を原動力として、限りある資源を使って経済活動を行い、最大多数の最大幸福を実現させるための処方箋と言えます。パレート最適状態とは、「他の誰かを不幸にしなければ、他の誰も幸せにすることができない状況のこと」を指します。他人の不幸の上でしか成り立たない幸せ、自分が幸せになりたければ、他の誰かを不幸にするしかない、これがミクロ経済学が目指す理想の社会であり、新自由主義経済のゴールと言えます。いわるゆゼロサムゲーム(足したらゼロ)というやつです。

一方で、パレート改善という概念があります。こちらは、「他の誰も不幸にすることなく、誰かを幸せにできる」ことを指します。いわゆるプラスサムゲームというやつですね。でも、これって、考えてみれば、改善の余地があったってことですよね。ヒト、モノ、カネという限りある資源を使って経済活動を行っているわけですから、最高に効率的なやり方を実現してしまうと、いわゆる成長の限界という状況を迎えます。こうなってしまうと、昨年よりも幸せになるためには、だれかに不幸になってもらうしかありません。国レベルでも、個人レベルでも、同じです。

世界がパレート最適に近づくと、ゼロサムゲームに向かっているわけですから、豊かなものがより豊かに、貧しいものはより貧しくといった現象がみられてきます。

いま、社会を見渡せば、国家レベルでの格差、国家の中での個人間の格差は広がる一方です。それも急速に拡大してきています。

すでに世界はパレート最適に達したか、達しつつあるのだと思われます。

マクロ経済学とは

一方のマクロ経済学は、見えない手など信用せずに、人間の手でより良い社会をつくり上げていこうという考え方です。

マクロ経済学は、1936年のジョン・メイナード・ケインズによって著された「雇用・利子および貨幣の一般理論」がはじまりだとされています。

長期的には見えざる手が働くかもしれないが、人間の寿命は短く、短期的には人間の手による調整が必要だというのが主旨です。

さらに、見えざる手の大前提である完全競争社会も実現しておらず、これからも実現の見通しが立たないのであれば、人間の手による市場経済への介入は必要不可欠のものだと言えます。

機会の平等が達成されないのであれば、せめて結果の平等はある程度、政府が保証しようという考え方も、わりと受け入れられる考え方ではないでしょうか。

ミクロ経済学とマクロ経済学との違いのまとめ

ミクロ経済学とマクロ経済学は、水と油くらい違います。その理由は、観測者の見ている視点の違いと、前提としているビジネスモデルの違いから来ていると言えます。このページで勉強していただいたことをまとめると以下のようになります。

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